2017年4月。
10年間払い続けた養育費の支払いが終わった。
20歳になった息子は一浪して東京の大学に入った。
彼女もいるらしい。
ーー2007年1月。
ひとりで金沢に移住した。
金沢の隣町、富山に希望の仕事を見つけたからだ。
養育費だけはきちんと払おう。
元妻が再婚し、息子に新しい家族ができたので、
自分にはそれだけしかできなかった。
もう息子に会うことはない。
そんな覚悟をして金沢に来た。
それが7年前、元妻から急に、
「子供を見舞いに来てほしい」
とメールが来た。
それで、久しぶりに息子に会った。
ある大学病院の病室だった。
息子の右脚に骨肉腫ができたという。
100万人に1人か2人という難病らしい。
目の前の息子は、抗がん剤で髪の毛がなかった。
ものも食べられず、がりがりにやせていた。
右脚を切断するか?
そこまで事態は切迫していた。
身内しか入れない隔離病室。
彼のベッドのそばに、まっさらなバスケットシューズがあった。
それはわずか数週間前「クリスマスプレゼントに」とせがまれて、楽天で買ったものだ。
彼がそのバスケットシューズを履くことは一生ないんだな。
そう思った瞬間、涙がこみ上げてきた。
泣くのは自分じゃない。
泣きたいのは息子のほうだ。
わかっている。
わかっていたけど止められなかった。
あのとき何をしゃべったのか覚えていない。
覚えているのは、病室での息子の笑顔だ。
中学生で右脚がなくなるかもしれないのだ。
楽しいはずがない。笑顔でいられるはずがない。
なのに、ずっと息子は笑顔だった。
ーーあれから7年。
幸いにも右脚は切断せずに済んだ。
厳しいリハビリもこなし、
今はなんとか歩けるようになったらしい。
でも、もう息子には会えない。
この7年間、一度も息子に会わなかった。
お金を送るだけで、すべてを済ませてきた。
新しい家族があるんだからしょうがない。
それを口実に、お見舞いさえ行かなかった。
いまさら、どんな顔して息子に会える?
息子の闘いをそばで応援しなかった自分には、
もう「お父さん」と呼ばれる資格はない。
そんな情けない自分だけれど
それでもいつか、と思う。
いつか息子に会えるかな、と。
その時はまた、あの病室のように、
笑顔を見せてくれるだろうか?
お父さん、と呼んでくれるだろうか。